映画の中の、あのカメラ|07 箱男(2024) コンタックス TVS

はじめに
皆さんこんにちは。ライターのガンダーラ井上です。唐突ですが、映画の小道具でカメラが出てくるとドキッとしてしまい、俳優さんではなくカメラを凝視してしまったという経験はありませんか? 本連載『映画の中の、あのカメラ』は、タイトルどおり古今東西の映画の中に登場した“気になるカメラ”を毎回1機種取り上げ、掘り下げていくという企画です。
安部公房の前衛的文芸作を映像化
今回取り上げる作品は、石井岳龍監督の『箱男』です。原作は1973年に出版された長編小説。トップ画面に写っているのはその初版本です。映画公開の2024年は原作の著者である安部公房生誕100年に当たります。この映画は本来1997年にドイツ・ハンブルクで撮影される予定でしたが、クランクイン直前に突如撮影が中止に。それから27年の時を経て、石井監督の驚くべき執念により新たな脚本・日本での撮影で完成した奇跡の一作です。
主人公の“わたし”は、段ボール箱を頭からすっぽり被り、小さな覗き窓から都市を観察し彷徨するカメラマン。一切の帰属を捨て、存在証明を捨て去ることで彼が得ようとしているものは何か? “わたし”の前にはアナーキーな攻撃力を持つ“ワッペン乞食”、箱を乗っ取ろうとする“ニセ医者”、箱を完全犯罪に利用しようとする“軍医”、謎めいた言動を見せる“葉子”らが現れ、物語はシュールな展開を見せます。
カメラマンの“わたし”が使っているカメラ

本作では、安部公房のトリッキーで実験精神あふれる世界観を可視化しつつ、石井監督ならではのパンキッシュなスピード感でアクションシーンを構築しています。想像を遥かに超えて素早く箱男は動きますし、段ボール箱の左右に設けられた切り欠きから両手を出して何かをすることも可能。
“わたし”はカメラマンですから、箱の中から素早く繰り出した右手にはカメラが握られていて写真を撮ったりするのですが、その機体が今回ご紹介するコンタックス TVSなのです。このシーンに接した映画館の暗闇の中で、思わず「おぉ、TVSっ!」と小さく呟いてしまいました。
コンタックス TVSってどんなカメラ?

劇中に登場するコンタックス TVSは、京セラがコンタックスブランドで販売していた高級コンパクトカメラです。コンタックスとは戦前の1932年にライカに対抗すべくツァイスグループが開発したレンジファインダー機の名称ですが、日本メーカーの大進撃により1970年代の初頭には西ドイツのツァイス・イコンはカメラ事業からの撤退を余儀なくされます。
そこでツァイスはコンタックスをブランド名として割譲し、エレクトロ35などのカメラを製造していた日本のヤシカとの共同事業により電子化された一眼レフ、コンタックス RTSを1975年に発表します。そのヤシカを合併吸収した京セラが最初に出したカメラが1984年発売のコンタックス Tという高級コンパクト機でした。
コンタックスTシリーズの発展型

初発のコンタックス Tは、前蓋がパタンと開く単焦点のレンジファインダー搭載MFコンパクトAE機で、戦後間もない1950年に登場したツァイス・イコンの機械式小型カメラであるコンテッサへのトリビュートを織り交ぜつつ、現代的な解釈で高級コンパクトカメラに仕立てたモデルでした。
その後継機として登場したコンタックス T2は、バブル経済の好景気を象徴するような豪華な仕様とチタン外装のボディで1990年に登場。レンズは初代コンタックス Tと同様のゾナー 38mm F2.8の単焦点レンズでしたが、新たにAF機能を搭載した全自動カメラでした。
バリオゾナー搭載のコンタックス TVS

そして1993年、バリオゾナー28-56mm F3.5-6.5ズームレンズを搭載したコンタックス TVSの登場となります。コンタックスTシリーズの歴史を振り返っているうちに話が長くなりましたが、同ポジションで連続した3コマの説明画像でレンズがニュ~ッと伸びているのがおわかりでしょうか。
2コマ戻ったところが電源オフの状態、レンズ基部のつまみを反時計方向に動かすとレンズが出てきて28mmの広角、更につまみを動かすと56mmの焦点距離へとズーミングされます。それに連動して光学式ファインダーの倍率も変化する機構も搭載しています。
コンタックス T2から受け継がれたインターフェイス

コンタックス TVSはレンズ基部のリングを操作することでP(プログラムオート)もしくは絞り優先オートでの撮影が可能です。マニュアル露出の設定はできないので露出補正をしたくなるのですが、その操作は天面左サイドにあるダイヤルを操作すると液晶に補正値が表示されます。
このインターフェイスは実際に使用してみると便利で、コンタックス T2から受け継がれたもの。コンタックス T2との違いは、ズームレンズ連動の光学ファインダーの光路に液晶スクリーンがあり、近距離のパララックス補正時には画面の上部と左側の一部がマスキングされ、電源OFF時にはファインダーの真ん中に=OFF=と表示が出てくることです。
京セラの得意分野の高級素材を投入

天面右サイドのマニュアルフォーカス操作ダイヤルの仕立てもコンタックス T2譲りです。そしてコンタックス TVSのシャッターボタンには京セラ(旧社名は京都セラミックです)の得意とする分野である多結晶人造サファイアが用いられています。
これは初代のコンタックス Tから脈々と受け継がれている素材で、初代Tは赤色で切り欠きありの丸型、T2とT3は黒で細長い長円、TVSは黒で切り欠きありの丸型が復活。人造サファイアの感触は、磨かれた金属と比べてもあまり違いが感じられないようなひんやりしたものです。
T2とTVSのどちらを選ぶべきなのか?

さて、ここにコンタックス TVSとT2を並べてみました。どちらもチタン外装の流麗かつ抑制の効いたフォルムで手触りも良く、両機ともファインダーカバーガラスに高級腕時計の風防などにも使われる人造サファイアを用い、フィルム圧板は金属ではなくファインセラミックス製とするなど高級コンパクト機のステイタス性に関しては同等だと思います。
コンタックス TVSのほうが100gほど重いですが、ズームレンズ搭載でこのパッケージに仕上げているのは流石です。劇中で“わたし”は街中の女性のミニスカートから露出する脚をモチーフに撮影し、段ボールの中でモノクロ現像したりするのですが、その目的には準広角を固定装着したT2よりもズームの効くTVSの方が向いているかもしれません。
豪華な専用パーツの意外な活用方法

コンタックス TVSには、裏蓋を交換するとフィルムに日付を露光できるデータバックなどのアクセサリーが用意されていましたが、純正のフィルターとフード、かぶせ式の金属製フードキャップにも注目したいところです。コンタックス TVSは電源OFFの状態でもレンズ第1面は露出したままなので、少々嵩張ってもフードをつけておくと安心です。
このフィルターとフードはφ30.5mmという特殊なサイズなのですが、1974年発売の元祖高級コンパクト機、ローライ 35Sに装着することが可能なのです。ローライ 35Sのレンズはゾナー40mm F2.8。双方のカメラには何のつながりもありませんが、偶然にもコンタックス TVS用のフードと互換性を持つことになりました。
おわりに

映画「箱男」をハンブルクで撮影しようとしていた1997年に、コンタックス TVSは現役の高級コンパクトカメラでした。その年の12月にはズーム操作ノブをリングにして操作感を高め、収納時のレンズ保護用バリアを搭載し、透過液晶を廃止してファインダーを明るくしたマイナーチェンジモデルのコンタックス TVS IIが登場します。
まだまだデジタルカメラの一般的な普及には程遠い状態だった時代に、高級コンパクトカメラというジャンルを築き、機能的な向上を目指したコンタックス TVS。もうこんな工業製品は2度と生み出されることはないと思うと、20世紀末へのノスタルジーが湧き上がってきてしまうカメラです。
■執筆者:ガンダーラ井上
ライター。1964年 東京・日本橋生まれ。早稲田大学社会科学部卒業後、松下電器(現パナソニック)宣伝事業部に13年間勤める。2002年に独立し、「monoマガジン」「BRUTUS」「Pen」「ENGINE」などの雑誌やwebの世界を泳ぎ回る。初めてのライカは幼馴染の父上が所蔵する膨大なコレクションから譲り受けたライカM4とズマロン35mmF2.8。著作「人生に必要な30の腕時計」(岩波書店)、「ツァイス&フォクトレンダーの作り方」(玄光社)など。企画、主筆を務めた「LEICA M11 Book」(玄光社)も発売中。