鞄にルックを詰め込んで ~ルックはレシピなんかじゃない。

雪の色が作れたよ
映画『リリーのすべて』で主人公が言うセリフです。画家にとって雪は白だけで描けるものじゃないんですね。白よりもっと無垢で、眩しく輝き、冷たさが感じられる色を探していたのでしょう。このセリフに象徴されるように繊細な心理描写が多く、映像もすごく美しい映画なのでおすすめです。


空気がどれくらい冷たくて、風がどんな匂いだったか、それが感じられるように撮れたらいいですよね。画家ならどんな色を使うでしょう。
浮世絵が写真に代わっても
いま浮世絵に興味があって本を読んでいます。江戸時代に浮世絵が流行ったのは、旅がブームになった背景があったそうです。伊勢参りなどが人気だったようですが、それでも一生に一度できるかどうか。そこで北斎や広重の名所絵を手に入れて、いつか行ってみたいと憧れを募らせたり、楽しかったなぁと思い出を蘇らせていたのかも。
そういえばカメラがたくさん売れた時代———高度成長期には、海外旅行への憧れがブームを牽引しました。カメラのカタログやカレンダーは海外の名所を撮った色鮮やかな写真が多かった記憶があります。それを見て「カメラを買ってまだ見ぬ世界を撮ってみたい」と思った人が多かったのでしょう。
江戸時代でも昭和でも、浮世絵が写真に変わっても、旅への憧れが人々の心を掻き立てたのですね。

カメラがあれば散歩も旅に、旅なら冒険にできると思います。
それが海外か国内かは関係なく、旅で使うと「機材やテクニックが本当に役に立つか」がよくわかります。お金や時間をかけているので期待でハードルが高くなり、二度と撮り直すことができないプレッシャーがあり、初めて見る被写体との出会いがあり、戸惑いとハプニングの連続。
撮りまくったらバッテリーがどれくらい保つか、慌てて取り出したときの操作性は、食べ物から風景や建築まで感動を残すことができる画質か、悪天候へ対応は、などホームグラウンドで撮っているだけだと気づかないことがたくさんある。
そうして旅を終え、写真を見ながら旅の思い出を振り返ってみると、興奮しているときと時間が経って冷静になったときとのギャップで、いかに記憶色に意味があるかを実感すると思います。
みんなが訪れる場所で、自分だけの写真を残す
旅ではルックの真価も問われます。これだけ情報が多くなると、みんな似たようなコースを周り、同じようなものを食べます。そこで自分だけが感じたことを写真にしたいと思っても簡単ではありません。天気がいい、機材がいい、加工が上手い、そういった写真と比べてガッカリしてしまいがち。
だからと言ってSNSで映えることしか考えてなくて、その場の光や空気が写ってないとしたら残念すぎます。人の記憶は曖昧で脆弱なもので、写真が上書きしてしまうから。

いまRAW現像して、見栄えを良くすることはできても、この時の光や服の色が再現できません。もう記憶も曖昧になっています。
どこの国でもどんな街でも同じように撮る、それによって違いがはっきりする。これはタイポロジーに繋がる表現の基本です。でも旅行のスタイルも時代によって変化してきました。
僕の初めての海外旅行は、まだトラベラーズチェックが主流でした。いま使っている人はほとんどいないですよね。
もちろんインターネットもありません。ここを読んでいる若い人がいたら、インターネットとスマートフォンを使わず海外旅行に出ることを想像してみてください。大きく重いスーツケースを用意して、航空券の価格を比較して予約して、ガイドブックを頼りに旅の予定を立て、地図(もちろん紙の!)に行きたいところを書き込んで・・・。せっかく手に入れた情報が半年前のもので役に立たないなんてよくあることでした。
それでこそ思い出が心の深いところに刻まれ、忘れられない体験になると言えますが、時代は変わったのですね。変化に対応しないと。
ルックを意識せず「美しいものはありのまま」に撮った写真と、ルックを意識して自分が感じていたことを残すことを優先した写真を見比べてみてください。この中間のどこかに撮りたい写真があるのではないでしょうか?
▼カメラ任せ

▼ルックを意識して適用

さらにそこに旅の情緒を加え、一般的なイメージと合わせてみた例がこちら。映画などはこのようにしてルックを決めることが多いようです。~らしさにルックが役立っていることがわかります。


ルックはレシピなんかじゃない
肉もエビフライも餃子もコロッケも、みんな醤油さえあればという時代がありました。それが今では、肉は岩塩で、エビフライはタルタルソース、餃子は酢コショウ、コロッケは中濃ソースと、それぞれの美味しさを引き立てるため違う調味料を使います。写真もそれに似たところがあって、被写体の魅力を最大限に引き出すためにルックを使い分ける時代です。
そのルックを数値化して料理になぞらえレシピと呼ぶ人たちがいます。じつは僕も、まだルックを使い分けることが一般的でなかった頃に、わかりやすくてキャッチーな呼び方がないかと考えてそう名付けました。わかりやすい代わりに誤解も招いたようで、もう次のフェーズに移る時期だと感じています。

そもそもルックをレシピと呼ぶのは、被写体の価値や撮影の意味を過小評価しすぎています。被写体は素材、撮影は調理で、ルックは調味料だと思います。素材はいつもいちばん大切なもので、調味料がそれより主張しすぎるのは良いことではない。
レシピと呼んで魔法のような扱いをするのは反対ですが、メリットはあって、秘密にして自分だけのものにしておくのではなく、公開してみんなでシェアして、より良いものにしながら広めていくことができます。そのほうが今っぽいですよね。ダルビッシュのスライダーの投げ方や、大谷のトレーニング方法を、みんなが知ることができます。
ルックをみんなで共有するためにも、僕は名前をつけることを推奨していて、好きな曲や映画のタイトルなどを選ぶこともありますが、最初のうちは都市の名前が良いのではないかと言い続けてきました。誰でも想像できるイメージがあり、短い単語で伝わるものが多く、もちろん旅行と相性が良いです。
そこでまずは都市名をつけて保存したルックを紹介します。
旅に出る前に「こんな写真が撮りたいな」とイメージを膨らませて設定することもあれば、現地に行って「このままじゃ光が撮れない」と感じて設定を変えることもあります。
全部を同じルックで撮っていたらどうなっていたかを想像しながら、街の違い、空気や光の違いを見てみてください。
「Amsterdam」

「Hong Kong」

「Bangkok」

「Boston」

「Kobenhavn」

「Helsinki」

「Waikiki」

「Manhattan」

これらのルックはわりに扱いやすく、撮り方や被写体の違いの影響を受けづらいので、設定を公開してみんなで使えるようになったらいいですよね。シャドウ−1.5、4600K、R:-1 B:5といった細々とした設定を、令和の時代に紙にメモしたり、手動で自分のカメラに移しているなんてどうかと思います。
これは個人的な夢ですが、メーカーのサイトに行くと世界地図があって、都市をクリックするとギャラリーが立ち上がって写真が見られて、気に入ったものがあったらその設定をファイルとしてダウンロードできて、自分のカメラにルックがインストールできたら最高です。課金だって構いません。
せっかくの機会なので「JAPAN」か「Tokyo」、あるいは自分の住む街の名前をつけたルックを作るならどんなだろうと考えてみてください。
レシピとは本来は手順を記したもの。そこで自分のルックを見つけるための手順と気をつけるポイントを解説します。
旅を思い描いたらルックのことがよくわかる
忠実色と記憶色
定期的に「記憶色の考え方がキライ」「色は見た目に忠実であるべきだ」と思うことがあります。みんなも同じことを思うのか、写真を見て「ほんとうはどんな色だったの?」という質問もよく受けます。けれども人の目と脳の優秀さといい加減さを知っていれば、見た目そのままに写真に撮るのは無理だということがわかります。
その前提で、ハワイの光を撮るためにルックを作りました。クラシッククロームをベースにしてホワイトバランスで青っぽくしています。ここまで読んでくださっていたら「レシピが知りたい!」なんて言わないですよね。
昼の時間帯なら無敵で、晴れでも雨でも、順光でも逆光でも思うまま。風景からストーリーのあるシーンまで自在に使えます。


無敵っぷりに嬉しくなって同じ設定のままアサイーボウル(ハワイで人気のスイーツ。身体にもいい)を撮りました。


さらにこのルックをハイキーで使いました。ビーチの風を感じながら、浮かれ気分で食べた記憶が鮮やかに蘇ります。同じものを東京で撮ってもこんなふうには写りません。

思いがけない出会い
初めての海外旅行のとき舞い上がって、機内食だけでフィルム一本も撮ってしまいました。それもリバーサルフィルムで・・・涙。いまの値段なら豪華なランチが食べられますね。
旅慣れてきたら機内食はメモとしてスマホで撮るか、いちいちカメラを取り出すこともなくなっていくかもしれません。機内ではなるべく睡眠をとるようにして機内食はパスすると旅慣れている感じがしますね。
同じように撮らなくなっていくものに窓からの景色があります。でも考えてみてください。窓際の席になって、ちょうどいい空の色に出会えるのは、かなりラッキーなこと。あとでアルバムを整理するとき、そういった写真が一枚あるだけですごく旅行っぽくダイナミックになります。そのためにも「サッと構えてすぐに撮れる設定で、光や色を美しく残せる」ルックを見つけておくことを強く勧めたいです。


写真にも文法のようなものがあって、時間は右に向かって流れるとされています。上の写真はこれから目的地に向かって飛んでいて、下の写真は楽しい旅を終えた帰りのような印象を与えるはずですが、どうでしょう。
とはいえこれは経験に基づく個人差があり、ヨーロッパに行くなら左向き、アメリカに行くなら右向きが自然に感じられるなど、違いがあると思います。

ところ変われば
地下鉄のことをパリではメトロ、ロンドンではアンダーグラウンドと呼びます。東京の地下鉄はロンドンを真似て作られたと言われていますが、名前はパリなのが面白いです。どちらも街に暮らすために欠かせないもので、駅の構造や光にも違いがあって、文化やそこに住む人の違いが見えるんじゃないかと思ってルックを使い分けてみました。

同じルックで同じように撮ってこそほんとうの違いがわかる、という意見もあるかもしれませんが、ここまでシンプルに、そしてまっすぐに伝わらないと思います。
蛍光灯の色かぶり、街路を照らすアンバーの光、どちらも赤を基調にしていながら微妙に違う色など、豊かな情報が写っています。これぞルックのパワー。
記憶の栞
写真に何を求めるかは人それぞれだと思います。旅の写真に関しては、どこでもドア+タイムマシンが理想でしょう。その写真を見たらその土地に行ける気がして、その時に戻れる気がする。
それは究極すぎるので、記憶に挟む栞(しおり)となって、その写真を見たら記憶のページが開かれるようだといいなと思っています。
そのために写っていて欲しいものがあります。その場の光、風の匂いや空気の肌触り、そして「そのとき自分が何を考えていたか」。
レンズの使いこなし、アングル、露出、ピント、そういったことだけでは写らないものがあると感じたら、ルックについて考えてみてください。それらがうまく調和したら、その場にいなかった人と共有することだってできる。20分の動画や、3000文字のテキストより、ずっと多くのことが伝えられる———写真にはそれだけの力があると僕は信じています。

■写真家:内田ユキオ
新潟県両津市(現在の佐渡市)生まれ。公務員を経てフリー写真家に。広告写真、タレントやミュージシャンの撮影を経て、映画や文学、音楽から強い影響を受ける。市井の人々や海外の都市のスナップに定評がある。執筆も手がけ、カメラ雑誌や新聞に寄稿。主な著書に「ライカとモノクロの日々」「いつもカメラが」など。自称「最後の文系写真家」であり公称「最初の筋肉写真家」。
富士フイルム公認 X-Photographer・リコー公認 GRist