【日本の名匠シリーズ 】植田正治とその時代 第三回|1940-1950年代 前編「植田家と砂丘の発見」

鳥原学
【日本の名匠シリーズ 】植田正治とその時代 第三回|1940-1950年代 前編「植田家と砂丘の発見」

はじめに

植田正治という写真家の不思議な魅力について、ときどき考え込んでしまうことがある。なぜ、私たちはその作品世界に惹かれてしまうのだろうか。生涯を「アマチュア」写真として生きた植田の作品は、時間や場所を超え、今なおファンを獲得し続けている。豊かな創造性の秘密に触れたくて、その歩みをこれからたどり直してみようと思う。

戦時下の芸術写真家

1945(昭和20)年8月15日、日本の第二次世界大戦は終わった。当時の人々の記録には快晴の暑い日だったと書かれている。

大多数の日本国民は、正午にラジオから流された昭和天皇による「終戦の詔書」、つまり玉音放送によって敗戦を知った。長い戦争が終わった直後の虚脱と解放感、あるいは憤まんと喪失感などが複雑に入り混じった、名付け難い感情を人々は味わった。

この日、植田正治は一枚の写真を撮っている。それは自転車の荷台に括りつけた大きなカボチャを写したもので、町並みには人の姿がなく不思議な静寂を感じさせる。見慣れたモノや風景をオブジェに変えてしまうシュルレアリスム的な表現だ。

シュルレアリスムとは、人間の深層意識を浮かび上がらせる芸術だと言われる。だとすれば、これはどんな心性が表れているのか。この一枚について、植田は次のように書いている。

「終戦の知らせは祖母と子どもたちの疎開先(鳥取県)で聞いた。当時、僕は40キロの距離を一日おきに自転車で往復し家族の食料を運んでいた。愛機のライカでもっぱら疎開先の田舎の人たちを撮ってやり、写真と米を交換したりしていた。この大カボチャを撮ったのは、何も終戦を記念しようなどという気持ちではなく、自転車にくくりつけたのを見て、なんの気なしにシャッターを切ったというだけなのだが、今になってみると、それは立派な終戦の記念写真になっている」

「終戦の日のカボチャ」
出典:雑誌『アサヒグラフ』朝日新聞社 1967(昭和42)年8月25日号

1939(昭和14)年に第二次世界大戦が始まって以降、アマチュア写真家たちの立場は戦時体制のなかで急速に苦しくなった。前回に述べたように好きな所で写真が撮れないだけでなく、美を求める芸術写真そのものが否定され、代わりに「報道写真」への転換が推奨された。その報道写真も、客観性に基づく自立した「フォトジャーナリズム」のことではない。それは近代的ヴィジュアルコミュニケーションとしての写真技術の総称であり、プロパガンダもその範囲に含まれていた。その報道写真によって国策の一端を担う、つまり「報道報国」への協力がアマチュアにも求められたのだった。

こうした時代の流れのなかで、植田にも思わぬ役割が与えられた。1940(昭和15)年に結成された全国のアマチュア写真家を糾合した国策団体、「興亜写真報国会」の米子支部長だ。その目的は防諜(スパイ活動の阻止)、出征兵士に送る慰問用写真の撮影、日本の文化の高揚、海外への文化工作などで、米子支部でも地元の生活文化をテーマとしたルポ「雪の生活」などを共同で制作している。

戦時下で求められた報道写真は、当然ながら植田の志向とは大きく違う。だが、立場上もあってか、彼はそれを取り入れようとした。たとえば1942(昭和17)年の『写真文化』(アルス)6月号に掲載された「植田正治作品集(農村に関する連作)」を見ると、報道と芸術写真の接点を探しているのが分かる。田舎の春の風情を感じさせる5枚の組写真はやはり植田調ではあるものの、どこかまとまりを欠いて見える。

『写真文化』12月号には同作に対する評価が掲載されているのだが、それは「技術的には報道写真家のそれには及びませんが、制作意図は敬意を表します」という実にそっけないものだ。この12月号には「わが足跡 植田正治作品集」という「少女四態」を含む一連の代表作が掲載されているだけに、当時の植田の心中が想像されよう。

出典:雑誌『写真文化』アルス 1942年6月号 植田正治作品集(農村に関する連作)

家族とともに迎えた敗戦

日米が開戦して2年ほどで戦況が悪化し始めるとフィルムや印画紙などの写真材料が急速に不足し、写真館の仕事は続けられたものの、芸術写真家としての制作は停滞した。愛用していたローライフレックスも手放してライカDIIIを使い始めたのも、興亜写真報国会の仕事で35mm判のフィルムなら入手できたからだ。また配給の食料だけでは間に合わず、慣れないなかで畑も作っている。それでも植田自身はかなり痩せてしまい、2回応召しているのだが、栄養状態不良ということで帰宅させられている。だが家長としては、家族を飢えさせるわけにはいかないのだ。

ライカDIII

植田の私生活を見ていくと、3つ年下で女学校を出たばかりの白石紀枝と結婚をしたのは1935(昭和10)年のこと。1937(昭和12)年には長男の汎(ひろし)が誕生し、その後も和子、充(みつる)、亨(とおる)と計4人の子どもを授かっている。三男の亨が生まれたのは大戦末期の1944(昭和19)年だから、暮らしはいっそう大変だったはずだ。

長女の和子の回想によると、敗戦直前には母の実家まで米を貰いに行くことも何度かあったという。紀枝は生後間もない赤ん坊を背負い、手には米の袋を両手に持ち、3人の子どもたちを引き連れて出かけた。乗っている列車が米軍機に空襲を受けたとき、子どもたちをかばいながら「死ぬときはみんな一緒だよね」と紀枝がきっぱり言ったことを和子はよく覚えている 。

子育てに加えて紀枝は写真館の実務も切り盛りし、生涯を通じて植田の作家活動の最も良き理解者であり続けた。もちろん、植田も彼女を深く愛した。2007年に出版された『僕のアルバム』(求龍堂)は、結婚すぐから紀枝をモデルに撮った写真で構成された一冊なのだが、そのすべてに慈しみがあふれているようだ。それが作品であるかどうかに関係なく、シャッターを切ること自体が愛情表現だったように思えてならない。

さて、あのカボチャの写真が撮られた敗戦の日に話を戻すと、疎開中の植田家では玉音放送を終りまで聞いていない。途中、植田の「あー終わった終わった、さあ帰ろ帰ろ」という声に急かされて座を離れたのだと和子は記憶している 。明日がどうなるかも分からない敗戦下ではあったが、家族がそろって、住み慣れた街で暮らせることが何より尊いものだった。

植田正治の涙―アマチュア写真界の復活

生活が落ち着き始めると、気になるのは写真のことだが、そのたびに植田は絶望に囚われた。「戦争が終わって、もう日本の写真界はだめだと、絶対だめだと、復活は不可能だと私は思った。もう写真は絶対できないと思っていた」 からだ。

だが、そこに一条の光が差し込む。その年の暮れのある日、「朝日新聞」(大阪版)の紙面にごく小さく「朝日写真展覧会」の開催と作品公募の社告を植田は見つけ「ああ、写真ができるぞということで、僕は涙が出た。またできるぞと思った」のだ。植田は薄い新聞を手にしながら、家族や従業員の前で男泣きに泣いたという。

この朝日写真展覧会は翌年2月に大阪の大丸百貨店で開かれている。植田が出品した、髪が風で逆立った幼女のポートレイト「童」は特選に入り、「これでまたやれる」という手ごたえを強く感じた。

この年1月、老舗のカメラ雑誌『カメラ』が復刊したこともアマチュアの心を奮い立たせた。植田も6月号に寄稿した「夏の田園」の冒頭で「何年か振りに平和な初夏であります。久し振りに、せめてカメラの塵でも払ってシャッターの快音をエンヂョイしようではありませんか」と軽快に呼びかけている。

以降、アマチュアの熱気を支えにカメラ雑誌の数は急速に増えていく。1947(昭和22)年に『光画月刊』(光画荘)が復刊、その翌年には新たに『日本カメラ』(日本カメラ社)の前身である『アマチュア写真叢書』(光芸社)や「フォトアート」(研光社)などが創刊された。最大手の『アサヒカメラ』も遅れて1949(昭和24)年に復刊している。

アマチュア写真界が盛り上がりを見せた背景にはカメラ業界の、他の産業分野に先駆けた復活がある。小西六写真工業(現・コニカミノルタ)、千代田光学精工(同上)、マミヤ光機(現・マミヤ・オーピー)、精機光学工業(現・キヤノン)などに加え、日本光学工業(現・ニコン)や高千穂光学工業(現・オリンパス)などの軍需に応えてきた光学メーカーも民生に転換、富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)もカメラ製造に乗り出していた。

敗戦直後から演出写真の制作を再開していた植田を、さらに奮起させたのは銀龍社への参加だった。銀龍社は、かつて中国写真家集団をつくった岡山出身のカメラ雑誌編集者石津良介の呼びかけで1947(昭和22)年に結成された、若いアマチュアとプロとが混在する写真グループだ。後に雑誌メディアで活躍する秋山庄太郎や林忠彦らやカメラ雑誌の編集長を歴任する桑原甲子雄が参加し、そこに植田や岡山の緑川洋一らアマチュアがいた。植田と緑川は会合に参加するために、東京行の夜汽車の床に新聞を引いて座り長い時間を過ごしたという。

銀龍社の活動は短く、わずか2回の展示で終了するのだが、彼らの垣根を超えた交わりは長く続く。そしてこれを母体として『日本カメラ』(日本カメラ社、1950年創刊)や二科会写真部(1953年創設)などが誕生し、戦後の写真界を活性させていくことになる。

この新しい風が植田にとって与えた希望の大きさは、『写真と技術』誌の「銀龍社特集号」に書いた一文からも想像できる。

「日本の写真界に、機智、皮肉、ユーモア、をもった写真が殆どありません。だから僕は、そんな写真を制りたいとおもいます。鹿爪らしい、深刻ぶった写真が、芸術写真という事になって居るなら芸術という言葉をあっさり返上して、僕は、大いに芸術でない写真を制ります」(「林檎」『写真と技術』 富士写真フイルム 1949年)

出典:雑誌『写真と技術』富士写真フイルム 1949年12月号 銀龍社特集 植田正治「林檎」

この言葉通り植田は突き進み、まさに「植田調」の代表作となる作品をこの時期に幾つも発表している。つまり『カメラ』誌11月号に掲載された「子狐登場」から始まり、「パパとママと子どもたち」、「ボクのわたしのお母さん」、「砂丘群像」、「妻のいる砂丘風景」、「砂丘ヌード」そして「ジャンプするボク」などの一連の自画像がそれにあたる。

「子狐登場」に関して、写真評論家の田中雅夫が『アルス写真年鑑 1949年版』で激賞している。田中は前年度のアマチュア写真界を振り返り、植田を「年度中一ばん充実したカメラワークを見せた一人」として位置づけ、「子狐登場」を挙げて、「幻想的なモチーフを自分の表現スタイルによって作画化した」、「作者の精進を示す傑作」だとしている。

確かに「同作」はまさに童画的な作品だ。狐の面を被った少年が、砂浜の向こうからぴょんとジャンプした瞬間を鮮やかに切り取り、プリントの段階で周辺の露光を絞る“ビネット効果”によって印象的に仕上げている。仮面をつけた少年は息子だというから、おそらく植田の次男、後にグラフィックデザイナーとなる充ではないか。

当初、舞台としてイメージされたのは麦畑や菜の花畑だったが、適した場所が見つからず、やっと夕方になって近所の浜辺で撮影されたものだという。だから狐の面が夕陽に照らされて不思議な輝きを放っているのだ。

【後編へつづく】

 

 

■執筆者:鳥原学
1965年、大阪市生まれ。近畿大学卒業。ギャラリー・アートグラフを経てフリーになり、おもに執筆活動と写真教育に携わっている。著書に『日本写真史(上・下)』(中公新書)、『教養としての写真全史』(筑摩選書)などがある。現在、日本写真芸術専門学校主任講師、武蔵野美術大学非常勤講師。2017年日本写真協会賞学芸賞受賞。

 

 

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