日本のカメラよもやま話
最終回
日本の「らいか」と日本の「こんたっくす」
戦前、戦後の日本の距離計カメラを旅する。

 この画期的なレンジファインダー機は、それまでレンジファインダー機が持っていた欠点をほぼ完ぺきにまで、克服した新鋭機であった。それまで、ドイツ製のレンジファインダー機に倣って、同様のカメラを延々と研究、試作、生産、販売して来た、日本のカメラメーカーは、ここに至って匙を投げたのであった。つまり、ライカM3のようなカメラは制作は出来ないから(これは技術的な問題だけではなく、コストの問題でもあった)一眼レフに転身しようというのである。
 結果として、この作戦変更は正しかった。そのおかげで、日本は今や、世界一のカメラ大国となったのである。その一眼レフ大国の日本の状況を踏まえて、戦前から戦後にかけての日本のレンジファインダー機の歴史を振り返って見るのは意味があることだ。
門外不出のウルライカは2001年7月24日から1週間だけ、東京の日本カメラ博物館で展示された。森山真弓法相がテープカットをするという、大イベントであった。ライカ社が日本のマーケットに寄せる期待が、これでも理解できる。
 先頃、日本のレンジファインダー機の歴史に興味ある「事件」が2件起きた。そのひとつは東京の日本カメラ博物館で開催されている「ライカ展」で、ライカ本社に保管されている、ウルライカ(世界最初のライカ試作品)が1週間だけ、展示されたのである。門外不出の珍品ライカが、わざわざ日本で展示されたのはライカ社が日本を重要なマーケットと認識している証拠である。二件目の「事件」は、今年で創立80周年を祝う、近江屋写真用品株式会社がライカM6TTLの100台限定をリリースすることを発表したことに端を発する。

その限定版ライカM6のサンプルを見せてもらった時、近江屋写真用品株式会社に秘蔵されている、国産最初のレンジファンダー機、ハンザキヤノンも見せてもらった。これは話には聞いていた幻のカメラであるが、いまだにしっかりとした機構で写真を撮影することができる。その年代は昭和11年、つまり1936年である。同社は1936年にハンザキヤノンを自社ブランドで登場させ、2001年にはライカM6を自社の記念限定版として登場させるわけだが、この事実はこの70年ほどの間の日本とドイツのカメラ生産国としての位置関係の激変を彷彿とさせる。
日本の戦後の写真製品を有名にさせたのは、実はカメラそのものよりも、レンズであった。ニッコール50ミリがその先鞭を告げ、それに付いているニコンSも一緒に有名になった。2001年には、キャパの愛機であったニコンSに、フォクトレンダーの新鋭レンズが装着可能な時代である。
 
 
 
 1936年に近江屋写真用品株式会社が自社ブランドのライカなどを、注文した所で世界のライツ社には相手にはされなかったであろう。ハンザキヤノンは国産レンジファインダーの草分けであったからだ。それが2001年に世界のライカ社(この意味はグローバル企業という意味である)が、ハンザの為にライカの限定版を生産するようになったのだ。そこには日本のカメラの昔と今の、その地位の変化がはっきりとしたコントラストで、浮き彫りにされているのである。

 話題は戦後のレンジファインダーブームになる。ニコンとキヤノンによる、その競争は、輸出向けの外貨獲得も重要であったが、日本国内にライカやコンタックスのような超高価な外国製品(当時は舶来品と呼んだ)に代わる、実用的な国産品を提供することがその目的であった。とは言うものの、その当時の国産機は、いずれもサラリーマンの給与の10ヶ月分はゆうにしたのである。現代の我々が気軽に買うことのできるような、国産レンジファインダー機ではなかったのだ。
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