日本のカメラよもやま話
最終回
日本の「らいか」と日本の「こんたっくす」
戦前、戦後の日本の距離計カメラを旅する。

田中 長徳
たなか ちょうとく/1947年東京生まれ、日大写真科卒。日本デザインセンター勤務の後、1973年からフリーランス写真家に。ウィーンに8年間、ニューヨークに1年間滞在。東京、ウィーン、ニューヨークなどで個展多数開催。著書・写真集多数。最近はクラシックカメラのエッセイの仕事も多い。日本写真家協会会員。
1936年生のハンザキヤノンで撮影した、私のポートレート。若干のピントずれはあるが、暗い場所で、これだけの描写が出来るのは素晴らしいの一語である。
撮影:中村文夫氏
 このシリーズもいよいよ最終回となった。今回は私の一番、気になっているカメラである、35ミリレンジファインダーカメラの話をしよう。

 世の中はデジカメ一色の感がある。私のようなオールドライカボーイでも、仕事に使うカメラは現在では完全にデジカメに頼っている。ところが一方で、趣味の写真と言うべきか、あるいは、純粋な写真芸術の方面と言うべきか、その言い方はいろいろあろうが、要するに自分の楽しみの為の写真というのは、ライカを始めとするレンジファインダー機で撮影をしているのだ。

 実例を挙げれば、私がライカM2を購入したのは1967年、つまり私は1947年生まれであるから、ちょうど二十歳の時のことで、それ以来、M2をずっと自分の写真行為の最前線で使用しているのだ。
 距離計連動カメラという写真機の存在には、独特のものがある。1960年代と言えば、前世紀の半ばの話であるから、すでに40年の大昔であるが、その当時に生産された工業生産物が、それが写真機であるから、2001年の現在でも実用に耐えるのであって、もし、これが他のクルマや電話機や、音響製品であったのなら、アンティークという認識はあるであろうが、実用という範疇からはほど遠いモノの存在であろう。ところが、ライカを始めとするレンジファインダー機というのは、そこにどれほどの古さも感じさせないばかりか、かえって、そのシンプルさが、現代のあまりにも便利一辺倒になった、しかも電池が切れたらただの函であるところの、最新型オートフォーカス一眼レフの複雑構造を無言のうちに批判しているような所がある。
1936年製のハンザキヤノン。面白いのは、現代ではライバルである、ニコンのレンズ、ニッコールが専用レンズである点だ。その仕上げの良さと、精密な工作精度はライカに肉薄する。カメラは近江屋写真用品株式会社蔵。
 
 
 35ミリレンジファインダー機は、常に新しい。これは、我々が20世紀の写真機の歴史を考える上で、常に意識している必要があるテーマなのである。いや、このテーマは案外、我々の世紀である21世紀にあっても、ちゃんと記憶されなければならないであろう。日本の写真機工業の幕開けは、一眼レフによって開始されたのだけど、実はその前段階で、1954年にデビューして世界を震撼させたライカM3のことを忘れてはならない。
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