日本のカメラよもやま話
第3回 
デジカメ全盛の現代に、戦後の
国産二眼レフの新鮮な魅力を発見!

 デジタル時代には、当然のことながら、デジタルカメラが普通の存在であるから、それは単に「カメラ」であって、フィルムを入れる方の写真機は、若い連中にとって、特別な存在なのである。ゆえに、撮影した後に、フィルムをラボに持って行くこと自体を、若い連中は別に面倒なことだとは思っていない。そういう手間は、自分の住んでいる地元のヘアサロンよりも、代官山のヘアサロンに行く方が時間はかかるけど、お洒落という感覚と同一であって、フィルム現像することが、彼らには「特別」なことだから、カッコよいという図式が成り立つもののようだ。つまり、日常の映像はデジカメで撮って、ちょっと気取った撮影にはフィルムカメラを使用するというのが、新カメラ人類の彼ら流儀なのだ。

 一方で旧カメラ人類の私などは、仕事が多忙なジジイなので、逆にデジカメの比率が増えている。現像に出して、それをピックアップして、今度はその選んだフィルムを編集部に届けるという複雑な時間と手間がいる。にもかかわらず、一般に原稿料は安いから(これは本稿を当てつけに言っているのではない。キタムラさんからは結構なギャラを頂戴しております)時間の節約の為に、(フィルム代の節約ではない。フィルム代は写真家の経費の中ではわずかなものである)デジカメで撮影して、インターネットで画像を送稿というのが、普通だ。私の朝日新聞の連載記事「カメラアイ」もそうだし、この連載もシステムは同様である。
マミヤの二眼レフは、レンズ交換式のCシリーズが良く知られているけど、その前には、はるかに小形で軽量な、マミヤフレックスオートマットがあった。スタートマーク式ではない、完全自動のフィルム装填を採用し、ローライオートマットのように、フィルムをローラーの下を潜らせる必要がないので、ローライより進んだ機構であった。レンズはオリンパスのズイコーを採用。このカメラは現在でも完ぺきに作動する。
 ところが一方で、私のカメラシーンでも、最近、二眼レフの存在が浮上してきた。その使い道の第一は、まず、カメラの操作を楽しめることである。その第二は、これは自分の写真作家としての活動には、このタイプの二眼レフは、思索の道具となるのである。私の名前を、カメラ雑誌のメカ記事によく見るので、私をメカライターのジジイと勘違いする向きもあるようであるが、私は本来は、「シリアスフォトグラファー」が本職なのである。その意味は、訳のわからない写真を撮影して、それを写真芸術であるとする高踏派のことである。これは欧米では職業として成立し、社会の尊敬も受けているのが、シリアスフォトグラファーであるが、日本ではまだ認識されていない。ゆえに、その日本語訳を「売れない写真家」というのである。
 二眼レフは、真面目な写真家の武器なのである。かの、ライカ名人木村伊兵衛先生も、ここ一番!と撮影の気合いを入れる時には、ローライフレックスを愛用したし、名作「11時02分ナガサキ」の東松照明さんは、ミノルタオートコードを愛用した。石元泰博さんは、アメリカのニューバウハウス出身の英才であるが、ローライフレックスを愛用する一方で、1960年代の日本製二眼レフの優秀さを激賞している。
 事実、1950年代から60年代にかけて、この国は二眼レフ天国であった。それはカメラファンのローライフレックスへの渇望が生んだのである。戦後、開発途上国であったこの国にとって、ローライはその価格からしても、一般写真愛好家にとっては、それは高嶺の花であるどころか、それを購入することを想像することも不可能な高級カメラであった。
戦後のごく初期の、国産二眼レフには、ドイツのローライを越えようという意気込みがあった。オリンパスフレックスは、その代表的存在で、他のメーカーの二眼レフが、4枚構成のテッサータイプを基本にしていたのに対して、6枚構成のFズイコーを採用した。レンズのバヨネットマウントや、絞りとシャッターのダイヤルも仕上げが良い。ただし、セルフコッキングではなく、いちいち、シャッターをセットする必要があった。
 
 
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