日本のカメラよもやま話
第3回 
デジカメ全盛の現代に、戦後の
国産二眼レフの新鮮な魅力を発見!

 1950年代の始めから、俗にAからZまでの、二眼レフが存在したという逸話があるほど、日本は二眼レフがブームであった。それは戦後の乱立状態であって、「四畳半メーカー」という言葉もあったほどだ。これは弱小メーカーが、二眼レフを生産するには、レンズやら、ボデイの部品やら、必要なモノをパーツ屋さんから購入して、それを組立て、自社のロゴを付ければ、それで独自ブランドの二眼レフの一丁あがりというわけである。ここには多少の脚色はあろうが、当時の二眼レフブームの側面をうまく抄出している。
 その中で、パワーを持っていたのは、やはりその背景に技術を持っていた、カメラメーカーであった。マミヤ、オリンパス、ミノルタ、トプコン、リコー、ヤシカなどが名乗りをあげた。1950年代始めから半ばのことである。リコーの出したリコーフレックスは、その価格が求めやすかったので、その代理店であった銀座四丁目の和光などでは、リコーフレックスを求める長い列が出来、闇市場ではその価格は急騰したと伝えられる。現今の、カメラの安売り商戦からは信じられないことである。
戦前のミノルタフレックスで、すでにセミオートマット機構を採用した千代田光学(現ミノルタ)の二眼レフは、戦後には、シンプルなローライコードタイプから再出発し、ミノルタコード、ミノルタオートコードへと進化した。実用的なカメラであるので、仕上げが良いというのではないが、ロッコールレンズの優秀さは多くのファンを生んだ。フォーカシングレバーの方式で、迅速なピント合わせが可能。早い時期から120フィルムだけではなく、220フィルムへの対応もしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 1951年のマミヤフレックスオートマットは、マミヤの有名なレンズ交換式二眼レフ、マミヤCシリーズの前のモデルであるが、ローライフレックスと同様なフルオートマットのフィルム装填機構を完備していた。これは、一般のスタートマーク式の最初にフィルムの先端を、マークに合わせる方式ではなく、ただ、フィルムの先端を巻き取り軸に入れて、蓋をして巻き上げの止まる所まで、回転させれば、撮影準備完了というモデルであった。
 オリンパスフレックスは普通の二眼レフは4枚構成の明るさがF3.5のテッサータイプが主流なのに、6枚構成のFズイコーでは明るさはF2.8で、他の競合機に水をあけた。しかし、二眼レフファンの中で、一番、記憶に残るのは、ミノルタオートコードである。ミノルタは戦前にすでにセミオートマット式のミノルタフレックスを世に出している。戦後の進歩で、ミノルタオートコードは、迅速なレバー式のフォーカシングと、セミオートマット方式のフィルム装填、そしてなによりもロッコール75ミリF3.5のレンズの優秀さで、国産二眼レフの「定番機」となった。レンズの優秀さでは東京光学のプリモフレックスも人気機種であった。
 実に数の多い国産二眼レフであるが、最後に私の大好きな1機種をそこに加えるとしたら、コーワが1960年代半ばに生産していたカロフレックスであろう。これはあのコルゲンコーワのコーワが作った二眼レフなのである。コーワは、自社ブランドのレンズ、プロミナーを持っていた。プロミナーは映画用レンズとしても有名であった。カロフレックスはそのプロミナー75ミリF3.5レンズを装備し、フォーカシングノブと同軸のフィルム巻き上げレバーが非常にユニークな速写性のある二眼レフだった。
 撮影シーズンに向けて、高級一眼レフでの撮影行も結構だけど、クラシックな国産二眼レフは旅のお供に最適な「旅カメラ」である。
コルゲンコーワのあの、コーワが生産した、個性派の二眼レフが、カロフレックスである。右手の操作で、フォーカシングと、同軸の正一回転の巻き上げクランクで、速写性を図ったモデル。ファインダーのコンデンサーレンズと、スクリーンは、観察がしやすいように、前に傾斜した独自の構造であった。シャッターボタンは、左手できる構造である。思いもかけぬ場所に、フィルムカウンターが付いている。その場所は秘密!! 実際にセコハンカメラ店で、実機を手にして驚いてもらいたい。
 
 
 
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