1925年のこと、ドイツで発売された金属製の真っ黒な小さいカメラがあった。その名前を「ライカ」と言った。聞き慣れない名である。
 そのライカというカメラはドイツはフランクフルトから北に40キロほど離れた田舎町、ウエッツラーのエルンスト・ライツという光学会社の製造した品物であった。

 ライツ社は当時すでに顕微鏡のメーカーとして著名であったが、その他に時代を先駆けた品物を開発していた。当時、到来しようとしていたクルマ社会に備えて、自動車に搭載するウインカー、いや、クルマが進行して右折や左折をする時に大昔は腕木のようなものを出していたけど、そういう関係の製品も開発したりした。

ソルムスのライカミュージアムのオスカー・バルナックの仕事中の写真。これはあまりにも有名なポートレートだけど、やはり、ライカミュージアムの展示で見るのが本当だ。手前のカメラはバルナックが手がけた数々のライカの試作品。
 当時のライツは新しいテクノロジーを開発する活気のある会社であった。ライカという小型カメラはそういうベンチャー企業の品物のひとつであった、ということになる。そのライカカメラは同社の技師オスカー・バルナックによって発明された。バルナックはライツ社に来る前には宿敵のライバルであるカール・ツアイス社に勤務していたのだから、当時、バルナックの優秀さを知ってライツ社はヘッドハンテイングでもしたのであろうか?
 バルナックは写真好きでウエッツラーの町の近郊を当時は普通のカメラであった蛇腹式の大きなカメラで撮影して歩いたが、もっと小型で軽量なカメラを欲していた。

 当時のライツ社は映画撮影機の開発もしていた。その映画撮影機というのは長いフィルムを入れるのだから、露出のチエックが出来ない。というのは当時はまだ電気露出計もなかった時代である。さて、どうやって露出を決定するのかでバルナックは考え、35ミリの映画用フィルムをごく短く装填できる超小型カメラを製作した。

画面サイズは映画の標準の18×4ミリに対してその倍の大きさ、24×36ミリだった。これが後年、ライカ判と呼ばれたサイズの誕生であった。
 これで撮影をし、すぐテスト現像をして結果を見るというのである。今にして思えばなんと気の長いことよ、と呆れるばかりだけど、これはライト兄弟が空を飛んだ前後の話である。

 バルナックはそのホームメイドカメラをポケットに入れて、たまたまウエッツラーの町で起きた災害、つまり町を流れるラーン川が大水になったのを撮影した。これは世界最初の小型カメラによる報道写真であった。その写真は今でもソルムスのライカ本社に保管されている。

日本からやって来た、遠来のゲストの為にバルナックがライカで撮影した写真を見せて熱演するライカアカデミーの館長ベルガーさんである。写真の風景はウエッツラー市の中心、アイゼン広場、今でもその光景は当時とまったく変わっていない。
1954年に発表されたライカM3はそれまでのライカの常識をくすがえる革命的ライカだった。このブラックのM3には1963の表示があるが、これはこのカメラの生産された年代を示す。有名なライカツリーのクローズアップである。
 今回、本稿を起こすにあたって私は久しぶりにライカ本社を訪問してその写真を改めて見たけど、そこにはライカの携帯性がなければ写せないリアリテイがあった。バルナックの才能はここに開花したのだ。
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