ライカ生誕の地、ウエッツラーは丘に囲まれた美しい風景が広がる。特にラーン川にかかる石橋はヨーロッパでも有数の古さとか。この川の洪水をバルナックのライカは撮影し、ライカのルポルタージュカメラとしての方向を決定づけた。
 そのバルナックが製作した映画のテスト用カメラが、一般の写真撮影に使用でき、しかも商売になる、ということを見越して生産を決断したのはライツ社の社長、エルンスト・ライツの先見の明であった。
 ライカカメラは1925年に発売されたけど、最初は人気が出るというほどではなかった。「あんな小さいネガでちゃんとした写真が撮影できるわけがない」これが当時の一般の写真愛好家の考えだった。最初の数年はライツ社は実際のネガからこれだけ大きなプリントが出来る、という宣伝に力をそそいだけど、どうしてどうしてそんなことで今までの常識がくつがえせるものではない。

 転機は1932年に訪れた。ライツはライカII型を発表した。このライカII型には連動距離計がついていた。つまりライカのボデイ上に距離計が搭載され、撮影者はカメラの距離計をレンズを回して距離を合わせると自動的にピントが合うというものである。当時はこれを「オートフォーカス」と呼んでいた。それほどに画期的な技術であったのだ。連動距離計を装備したライカはまたたく間に世界最高の小型カメラとなった。報道関係、芸術写真家、探検家、科学者などがつぎつぎとライカユーザーになった。ライカにとってこれは最高の宣伝効果である。ライカは次々に新型を発表、1939年にはそれまでの板金加工の古い製作方法から近代的なダイカストのシャーシを持ったボデイになった。ライカIIICである。このモデルは戦後、シンクロ接点がついたライカIIIFに引き継がれ代表的なライカになった。この頃、ライカはすでに高級カメラの代名詞になっていた。

 1954年、ドイツはケルンのフォトキナでライツ社はそれまでとまったく異なる新型ライカを発表した。ライカM3である。それまでのスクリューマウントから大型バヨネットマウントになり、迅速なレンズ交換を可能にし、しかもレバー式の迅速巻き上げ機構を備え、ファインダーは各種のブライトフレームが使用するレンズに応じ自動的に出現、しかもパララックスは自動で補正された。このライカM3が現代のライカM6、そしてすでにライカ社の研究ラボでは用意され、デビューを待っている筈!?のライカM7の源流となった。

 さて、次号ではそのライカMモデルの魅力について展開して行こう。

たなか ちょうとく
1947年東京生まれ、日大写真科卒。日本デザインセンター勤務の後、1973年からフリーランス写真家に。ウィーンに8年間、ニューヨークに1年間滞在。東京、ウィーン、ニューヨークなどで個展多数開催。著書写真集多数。最近はクラシックカメラのエッセイの仕事も多い。日本写真家協会会員。
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