【豊作で稲架掛けの高さは例年より高く、稲刈りを終えた集落は静まり返っていた。
■カメラ:ブロニカGS-1 レンズ:100mm F3.5 絞り:f11 シャッタースピード:1/60 フィルム:Fuji RDP・ 撮影地:長野県下水内郡栄村(撮影当時) 平滝駅
 



うす暗い杉林に一瞬春の陽光がさし込むと木立の雪がきらきらと舞い、列車が目の前を通り過ぎて行った。心地よい響きを残して…。
■カメラ:ブロニカGS-1 レンズ:50mm 絞り:f8 シャッタースピード:1/125 フィルム:RDP・ 撮影地:新潟県中魚沼郡中里村(撮影当時) 越後田中〜越後水沢


ほっぺの赤い子どもを見なくなったのはいつからのことだろう。霜やけやあかぎれの子も見なくなったけど、子どもはいつでも風の子。
■カメラ:ニコンFM2 レンズ:ニッコール180mm F2.8 絞り:f8 シャッタースピード:1/60 フィルム:RDP・ 撮影地:長野県下水内郡栄村(撮影当時) 横倉駅 1月

爽やかな5月、線路脇の小さな棚田では田植えが行われていた。お百姓さんは一本一本丁寧に植えながら、美味しい魚沼産コシヒカリを自慢していた。
■カメラ:ブロニカGS-1 レンズ:85mm 絞り:f8 シャッタースピード:1/60 フィルム:RDP・ 撮影地:新潟県中魚沼郡津南町(撮影当時) 越後田中〜津南
 
写真を撮ったことはなかったけれど、
テレビコマーシャルを見てカメラを購入。


 特に何かを撮りたかったわけではなく、写真が好きだったので、就職して最初のお給料で、当時よくテレビコマーシャルが流れていた一眼レフカメラのペンタックスSPを購入したとおっしゃる滝沢さん。
 「就職したのは国鉄(現JR)でした。運転所と呼ばれる車両の整備や運転士・車掌の管理をする部署で上田にあり、私は車両の検査を担当していました。その頃テレビコマーシャルを見てどうしても欲しくなり、最初の給料でペンタックスSPを購入したんです。55mmの標準レンズを付けて5万円程でした。当時の初任給が2万6千円位でしたので当然月賦で買いました」。
 最初は主に家族を撮影していましたが、ちょうどその頃にSLが長野周辺から次々に無くなりはじめ、長野と松本を結んでいた篠ノ井線を走っていたSLが長野では最後になりました。また、それを記念したイベントも開かれました。
 「実はその時、私が最後のSLを磨き、飾り付けもしました。そのようなこともあり、長野最後のSLを撮影したのが初めての鉄道写真です。しかし、それで鉄道写真を撮るようになったわけではないんです」。
 その後、篠ノ井機関区に転勤になった滝沢さんは、職場にあった写真クラブに誘われて入会します。そこでは鉄道はもちろん、冬のアルプスなどもよく撮影していました。また、東京からモデルを呼んでの撮影会なども行なっていました。
 「モデルに限らず人を撮るのが好きで、人と話をしながらいい表情の時にシャッターを切ることを心がけていました。そのクラブでは10年ほど活動しました」。


運転士として乗務するようになり、
運転席から季節の移り変わりを実感。


 30歳を過ぎてから滝沢さんは運転士(電車運転士)の資格を取るために勉強をし、半年間の見習い運転士を経て国家試験に合格、34歳で正式な運転士になりました。
 「勤務先は篠ノ井機関区から長野運転所に移りました。運転士として乗務していた路線は、日本海側の直江津から東京の上野までの信越本線と、それ以外に篠ノ井線を経由して中央西線の木曽福島まで乗務していました」。
 運転士として乗務するようになってから、本当のカメラ人生が始まったと言われます。
 「運転席は列車の先頭にあり、景色が一番よく見えます。特に季節の変わり目は味わい深く、5月の初め頃、信越本線の直江津から長野に向かって運転している時、途中の山間部に差し掛かると残雪がまだたくさん残っているのです。季節の移り変わりや陽のあたり具合など、運転しながら自然と風景が頭に入ってくるのです。すると今度はそれを自分なりの表現で撮影したくなりました」。



特急あさまからローカル線の飯山線へ。
すべてが対照的で驚きの連続


 1987年に国鉄は民営化され、長野地区はJR東日本の管轄となりました。民営化される少し前に、滝沢さんはディーゼルカーの運転士の資格も取得しました。民営化により、効率化を図るために運転士もさまざまな列車を運転することが求められたからなのです。そしてこのことがきっかけで、滝沢さんはローカル線の“飯山線”に乗務することになりました。
 「実際に乗務してみると驚きの連続です。それまで乗務していた“特急あさま”に比べると、列車の速度は遅く線路はカーブの連続です。千曲川を横に見ながら山間部を走るその風景は、初めて見るものでした。沿線はかやぶき屋根の農家が点在し、その周りには段々畑が広がっています。そのすばらしい風景をカメラに収めたくて“飯山線”を撮り始めたのです」。
 撮影の時に駅舎や車に寝泊りをしていると、よく地元の方が『うちに来なさい』と声をかけてくれたそうです。10年近く飯山線の写真を撮っていたので、沿線では滝沢さんのことはよく知られていたようです。ご飯やお酒をご馳走になり、地元の子どもたちにも顔を覚えてもらったおかげで、人物を撮影しても警戒されることなく自然な表情を撮ることに成功していました
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