カメラはライカ
M6の各種限定モデルが並ぶ、フォトキナ期間中のケルン市内のカメラ店。見るだけでカラフルで楽しくなるが、その写りは普通のM6と変わるところはない。M6は1984年の登場以来、すでに実用機ではなく、コレクターズアイテムになっている。しかし私のような「ライカ人類」はこの方向には批判的だ。ライカはやはり「写してなんぼ」のモノであるからだ。
 難しいのはライカを求めるライカファンの意見である。満を持して発売したライカM5は不評であったので、ライカは1978年に、今までのライカM4に若干の手直しをした過渡的なモデル、ライカM4-2を発表する。このモデルではライカワインダーが調整なしで装着可能で、これは報道関係のカメラマンなどには好評であった。1981年には、M4-Pに28ミリと75ミリのファインダーフレームを追加したライカM4-Pが登場した。

 M5のTTLメーターで失敗した経験を生かして、従来のM型のボデイにメーターを組み込んだ、決定打が1984年に登場したライカM6である。

 M5ではフィルム面の前に現れる測光素子であったのに対して、M6ではシャッター幕の白い丸の反射をカメラ内部で測光するという方式に改められた。

 以来、M6は現行ライカの完成モデルとして実に15年以上のロングランになり、1998年のフォトキナでは、TTLのフラッシュ測光が可能なライカM6TTLとなった。

 ところで、私がM6を使うようになったのはつい最近のことなのである。それまでは長い間M5を愛用していたのだ。M5とM6を比較すると、M5はライカの技術が最高水準にあった時代の製品だから、実に作りが良く出来ている。それに対してM6の場合には、お世辞にもその仕上げが最高であるとは言い難い。コストダウンの荒波はライカも例外ではないのである。ただ、実用のライカとしては文句の言いようがないのがM6である。私の最新刊の写真集【FROM RUSSIA WITH LEICA】(アルファベータ)は、モスクワをライカM6で取材したライカスナップの写真集だ。ライカM6一台にレンズはリコーGR28ミリと古いエルマー90ミリの2本だけで、取材した作品集だ。こういう仕事を離れた、フットワークの軽い撮影には、M6は最高の仕事をしてくれる。ただし、最近のライカファンの中には、M6は実用機だけど、愛玩するにはちょっとね、というので、傍らにライカM3を備えるというライカファンも居る。M3はライカがライカであった最高の時代のカメラなのだから、そういう趣味も悪くない。

 ライカ関係者の話を総合すると、どうも新型ライカM7は今世紀中には出ないようである。M6は現代の基準で考えれば、TTLでマニュアルで露光を合わせる型遅れのカメラであるが、カメラがこれだけ進歩して来ると、そこが逆に魅力なのだ。

 ライカの未来はどうか?
 カットで紹介したのは、1997年に雑誌日本カメラの求めに応じて、私が描いた未来のM型ライカの予測図である。別にライカM7というのではない。まあ、ライカM10あたりであろうか? ボデイはカーボンファイバーとか、セラミックの新素材、それでもライカの丸っこいスタイルと、レンジファイダーは伝統として、しっかり生きている。ライカのバヨネットマウントはM型から大型のN型バヨネットになり、旧M型でも、もっと古いライカスクリューマウントでも、そのままアダプターで使用可能だ。クラシックなフィルムのほかに、新型の1000万画素のデジタルバックの装着も可能である。

 こんな風にライカはその進歩をのペースを止めることはない。この図は、私のまったくの空想であるけれど、ホンモノの未来のライカは、こんなモノより、遙かに素晴らしいものであることは疑う余地はないであろう。

1967年のライカM4から、ラピッドローデイング式のフィルム装填が採用された。さらに1978年のライカM4-2ではライカワインダーの連結カプリングが常備された。写真はM6の内部を示す。
私が想像した、未来のライカ。
おそらくライカM10あたりであろうか。その頃には、こういうスタイルのカメラも非常にクラシックな外観ということになるだろう。このライカは通常はデジカメであるが、お好みでクラシックなフィルムも使用可能ということになるだろう。
たなか ちょうとく
1947年東京生まれ、日大写真科卒。日本デザインセンター勤務の後、1973年からフリーランス写真家に。ウィーンに8年間、ニューヨークに1年間滞在。東京、ウィーン、ニューヨークなどで個展多数開催。著書写真集多数。最近はクラシックカメラのエッセイの仕事も多い。日本写真家協会会員。
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