日本のカメラよもやま話
その壱 日本一眼レフの勃興
〜オートフォーカスの夜明け前まで〜

田中 長徳
たなか ちょうとく/1947年東京生まれ、日大写真科卒。日本デザインセンター勤務の後、1973年からフリーランス写真家に。ウィーンに8年間、ニューヨークに1年間滞在。東京、ウィーン、ニューヨークなどで個展多数開催。著書写真集多数。最近はクラシックカメラのエッセイの仕事も多い。日本写真家協会会員。
 
 
 
 時は2001年である。
 栄光の21世紀である。

 新しい時代の幕開けとともに、デジタルカメラあり、ライカありの、正に百花繚乱の映像の新時代の幕がきって落とされた。21世紀の映像の可能性とその進化は、留まる所を知らない。
 ここで、こういう時期に前世紀、すなわち20世紀の日本のカメラ産業の発展の軌跡を展覧しておくのは意味があることと思う。題してチョートクの読み切り写真機講談「日本のカメラよもやま話」の4回連載のはじまり、はじまり。

 さあて、第一話は「一眼レフの勃興」となる。
 日本のカメラと言えば、35ミリ一眼レフがその代表選手である。ライカやローライはドイツ、ハッセルはスウェーデンで、35ミリ一眼レフは日本というのは世界常識である。
 昨年2000年秋のフォトキナは、20世紀最後のフォトキナであったわけだが、ドイツのケルンに、私は恒例の取材には行かなかった。その代わり、ドイツを同じ時期に旅行した。その時に携帯したのは、1954年製のライカM3のレンジファインダーの代表機と、そしてもう一台は現行の一眼レフ、ニコンFE10の2台である。偶然にそういう組み合わせになったのであるが、旅の途中に、この2台のカメラを比較して見ると、そこには、戦後の世界のカメラの縮図が浮かびあがってくることに気がついた。
 ライカM3はこれはあまりにも有名な、レンジファインダーの最高傑作機である。 
1954年のフォトキナで発表されたライカM3は、当時の日本の写真機工業界に実に大きなショックを与えた。戦後の平和日本での平和産業の育成ということで、それまでドイツが主流であったライカやコンタックスのコピー機からスタートした、戦後のカメラ産業であったが、それもどうにか軌道に乗って来たという矢先の、ライカM3の発表であった。そのライカM3の登場に、日本のカメラ産業は到底太刀打ちできない、という方向変換の決断を余儀なくさせられたという背景があった。その方針の変換で各社が急遽開発に力が注いだのが、新鋭一眼レフカメラの開発であった。 
 さて、その日本の一眼レフの歴史を講談風に以下の3000字弱で、果たしてその輪郭が正確にとらえられるかは、疑問ながら、超駆け足で1980年代半ばのオートフォーカス一眼レフに至るまでの、マニュアル一眼レフの歴史を振り返ってみよう。
高度成長期の日本のお父さんの休日の家族連れの行楽には、かならず、このアサヒペンタックスがお父さんの肩からぶら下がっていたものであった。私の父も同様である。最初に私の出会った一眼レフカメラは父のペンタックスであった。M42マウントで各種のレンズが使用できるのが強みだ。これはアルパブランドのレンズと組んだ一例。
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