写真おもしろヒストリー

初めて見せられた写真に、
「息がかかると消える」と叱られた下岡蓮杖

下岡蓮杖
蓮杖の自写像
 日本の写真の開祖と言われている人物には、前回このコーナーで紹介した上野彦馬の他にもう一人、下岡蓮杖がいます。蓮杖は文政6年(1823年)に伊豆の下田で名字帯刀が許された回船判問屋の桜田家に三男として生まれました。幼名を久之助といい、小さい頃から絵が好きで、毎日浜辺の砂地に棒で絵を描いていたといわれます。

 6才の時に農家に養子に出されたのですが、養父母が相次いで亡くなったために桜田家に戻されます。13才の時に絵師を志して江戸に向かいましたが、その旅の途中で世話になった箱根の旅篭に、出世した後にお礼に行ったという逸話が残っており、蓮杖の義理堅い人柄がうかがわれます。






木村政信
蓮杖を狩野薫川に引き合わせたといわれている木村政信
 その後、狩野春川の弟である薫川の弟子となりますが、塾の講義で「西洋には奇妙な器械があり、その器械を一度差し向けられると、ひげ一本、ほくろ一つが寸分たがわず、鏡に映すが如く、鉄板に再現される」と聞き、蓮杖の興味をひきます。

 しばらくして師匠の使いで何度か薩摩藩の下屋敷へおもむく機会を得ましたが、そこで親しくなった藩士に「珍しいものを見せてやる」と言われ、一枚の鏡面に男の姿が映し出されているものを見せられます。「これは銀板写真と言って、筆で描いたものではなく、器械で写して薬で男を現したものだ。南蛮渡来の珍品で、日本に二つとないものである」と藩士は胸をそらして説明したそうです。蓮杖は『もしやこれが塾で聞いた西洋の器械で写したものではないか』と思い、顔を近づけたところ、「息を吹きかけると絵が消えてしまう」と叱られ、あわてて手拭いを口に当てた、ということです。


 この写真を見た蓮丈は「自分がいくら器用に描いても、この真似はできない」と思い、写真技術の習得を決意します。長崎に行けば習うことができるだろうと考えましたが、長崎までの旅費が工面できません。ちょうどその頃、浦賀では黒船騒ぎが起こっていました。そこで蓮杖は、思い切ってその黒船に乗っている外人から教えを乞おうと、砲台の番人になって黒船を待ったりしました。


近藤勇の有名な写真。撮影者不明だが、蓮杖の作ともいわれている。
 その後、蓮杖が下田に戻っていた時に、ロシア艦隊のジアナ号が難破して下田に滞在することになりました。その宿舎に蓮杖は給仕として潜入、写真機をその目で見ることができたと言われています。しかし当時は外人と直接話をすると斬罪となったため、写真機を見ただけで終わったようです。このように、蓮杖は機会があれば写真技術の習得を心がけ、関東の写真の開祖と言われるまでになりました。

 こうしてみますと、前回と今回の二回に分けて紹介しました、日本の写真の開祖の二人は、上野彦馬が科学の方から写真を研究し、蓮杖は絵師として写真を習得していったことになります。