『孝行鳥居』年老いた親鳥居を子の鳥居がけなげに支えている。しかし、子供にも疲れがみえて赤い肌も剥げかかっており、参拝者の憐れみを誘う。香川県の土庄町にて。
ボクの場合は、特に看板や貼り紙に関心があるんです。街を歩いていて、例えば何かの店を探しているとしたら、一生懸命に看板を見回したりしますけど、そういう必要情報とは別に、無目的に街の看板を見ると、例えば薬屋にかかっている平仮名の「くすり」という文字も、何やら”くすり“と笑っているように思えてくるんです。
以前、米沢を路上観察していて、「牛肉手作り工房」なんて看板があったんですが、素朴な疑問として「牛肉をどうやって手作りするんだろ?」って気になっちゃって(笑)。あるいは奥さんという名前の歯医者さんがいたら、「奥歯科」という看板を出しますよね。それを見て「”オクバ科“ってのがあるの?」と言って不思議がる人もきっといると思うんですよ。街ゆく人は、みんな世の中の事はすべて分かったような顔をして歩いてるけど、日常見かける看板なんかでも、よく分からないモノって結構多いんですよ。
また、これが貼り紙になると、もっと言葉の意味が前面に出てきますから、それが我々の一般的な感覚と微妙にズレた時の面白さっていうのが分かりやすいんで、笑いを誘うものが多いんですよ。デザイナーやコピーライターが作った広告的な貼り紙でなく、極めてパーソナルなもの。例えば自分の家の前にゴミを置かれて腹の立っている人の気持ちをそのままぶつけた肉筆の貼り紙とか。作者が最初から面白がらせようとして作ったものって、むしろ素直に笑えないんですよ。作者の意図していない面白さを、一枚の貼り紙の中に見い出すのが楽しいんだなぁ。
ボク自身が感じる「路上観察」の魅力としては、こうした「よくわからないモノ」と、もうひとつ「懐かしいモノ」という方向性がありますね。自分が子供だった昭和30年代、家といえばみんな木造で、コゲ茶色の板張りばっかりだったんですよ。そういう家が今も残っているのを見ると、最近の住宅にはない味わいを感じますね。また、こういう板張りに、ホーロー製の広告看板なんかが取り付けてあったのも、子供の頃さんざん見ていた光景なんで、今、見かけると思わずシャッターを切ってしまうんですよ。そういう体験のない人にとっては何の意味もないモノかも知れませんが、同じ世代の人とはこうした懐かしさを共感できるんですよね。
こんな感じでボクらは「路上観察」を楽しんでまして、特にいつまでも続けようとか考えているわけではないんだけど、もうかれこれ10年以上になってしまいました。仕事として依頼された時だけでなく、やっぱりプライベートで温泉旅行をした時なんかでも、つい面白いモノを探してキョロキョロしてしまうくらいですから、きっとこれからもずっと続けてゆくんでしょうねぇ(笑)。
南さんのお話をお聞きした後で街に出ると、今まで何げなく見過ごしていた看板や貼り紙が、妙に気になって私たちまでついキョロキョロしてしまいそうです。さて、次号では、南さんと同じく「路上観察学会」の中心メンバーである赤瀬川原平氏にご登場いただき、南さんとはまた違った角度から、「路上観察」について語っていただきます。お楽しみに。
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