最も身近な山。でも奥が深く難しい被写体。
やはり富士は日本一の山。

江戸時代に浮世絵として葛飾北斎の「富岳三十六景」や安藤広重の「東海道五十三次」にもその雄姿が描かれた富士山。またいろいろな歌にも詠まれ、古くから人々に信仰の山として崇められてきました。現在でも日本を代表するもののひとつであることに変わりはありません。そんな富士山の魅力にとりつかれた一人の女性写真家がいます。そのエネルギッシュな活動から生まれたさまざまな富士山の姿をご紹介するとともに、富士山に対する熱い思いをお聞かせいただきました。
【厳冬の笠雲】昼頃久しぶりに笠雲に出会った。早朝は一面の氷の湖も緩みだし、風の止み間がシャッターチャンス。
■カメラ:ペンタックス6×7II レンズ:ペンタックス67ズーム90‐180mm 絞り:f11 シャッタースピード:オート +1補正 フィルム:RVP 三脚使用 撮影地:山梨県上久一色村 精進湖 2月

【吹雪き上がり】雪上がりの朝、富士の雲は取れないまま一筋の光が差し、あわてて飛び込んだ雪原は30cm位の深さでした。
■カメラ:ペンタックス6×7II レンズ:ペンタックス67ズーム55‐100mm 絞り:f11 シャッタースピード:オート PLフィルター使用 フィルム:RVP 三脚使用 撮影地:山梨県忍野村 2月

【早春の竹林】静岡県側は暖かい。午後の日差しに竹の緑も美しくなり、この辺りはのどかな田園地帯です。
■カメラ:ペンタックス6×7II レンズ:ペンタックス67 45mm 絞り:f16 シャッタースピード:オート PLフィルター使用 フィルム:RVP 三脚使用 撮影地:静岡県芝川町 3月
ラボに勤めて写真を見ているうちに、
興味がわいてきたんです。


 カラーフィルムが一般的になり、それにともないカラープリントの需要が一気に高まってきた1960年代。ちょうどその頃、竹内トキ子さんは自宅近くのラボに勤めはじめました。
「毎日残業の連続で、夜の10時、11時頃まで仕事をしていました。また、日曜日に出勤することもあり、とにかく忙しくて、息つく暇もありませんでした」。
 その当時、プリントの色調の調整から仕上がりの検査までを担当されて、毎日膨大な数の写真に接していました。しかしそれによって、日本全国の多彩な風景を目にすることができたのです。
 もともと写真にはとても興味があったそうですが、撮影するカメラもまだまだ高価な時代。休みもなかなか取れないこともあり、写真といえば人のプリントを見ることでした。
 ラボに勤めて写真を見ているうちに、「私だったらこう撮るのに」という気持ちが生まれ始め、徐々に写真を撮ること自体への興味がわいてきたそうです。

偶然手に入れることができた、
憧れの一眼レフカメラ。


 その頃は、たまに旅行に出掛けても、写真を撮る時は友だちが持ってきたカメラを借りての撮影。自分のカメラで思う通りに写真を撮ってみたいという思いが日々募っていた頃、偶然にも中古の一眼レフカメラを手にすることができたのです。
「職場に、競馬に入れ込んでいる人がいましてね。ある時、その人が手持ちのお金をすべて使い果たしてしまって、当時としては高級品だったカメラと交換レンズの買い手をさがしていたのです。それを聞いた私は思わず飛びついてしまいました(笑)」。
 それがカメラとの、最初の出会いでした。

 写真を撮りに行く時間が欲しくて、
 勤務形態も変えました。


 やっとカメラを手に入れることはできたものの、やはり撮影に出かける時間はなかった竹内トキ子さん。そこで、いままで勤めていたラボを一旦退社され、今度はパートタイマーとして再度、同じラボに勤められました。
「少しでも写真を撮る時間が欲しくて、夜勤の時間帯に勤務を変えました。当時は24時間体制でしたから。それに夜勤の方が、お給料もよかったんですよ(笑)」。
 このような苦労と工夫の甲斐もあって、ついに、晴れて念願の撮影旅行に出かけることができるようになりました。当時は富士山を特に意識することもなく、他の多くの被写体と同じように撮影されていました。今と違って運転免許もなく、カメラを入れたリュックを背負って電車やバスに乗り、全国へ風景写真を撮りに出かけていたそうです。
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