日本のカメラよもやま話
第2回
大昔のレンズシャッター式
レンジファインダーが新しいぞ!

 戦後、日本のカメラ工業が新たな歩みを開始したとき、世界のカメラ大国のドイツに追いつけ!という意気込みから、ニコンの前身、日本光学工業ではニコン・型を作り、キヤノンの前身、精機光学工業ではレンジファインダー式のキヤノンカメラを製作したのだったが、これらはドイツのまねであった。しかもその当時、このような高級カメラというものは日本ではその価格があまりにも高すぎて、一般人の手に入るようなものでは到底なかった。その多くは世界の大市場、アメリカに輸出されたのである。

日本には日本のカメラ文化があり写真機文化というものがある。そこで戦後のごく早い時期に登場したカメラ、これらにはささやかながら日本の写真機工業を進めて行こうという非常にまじめな意気込みが感じられた。それらのシンプルなカメラには数多くあるがその中で私の記憶に残るのはオリンパス、コニカ、トプコンなどのシンプルなレンズシャッター式のカメラたちである。
1960年当時のワイドカメラブームでは、オリンパスワイドに続いて、各社が35ミリレンズを付けたワイドカメラを次々に発売した。マミヤワイドもその例外ではなかったが、真面目なメーカーらしく、そのボディとレンズの作りには手を抜いていない。6枚構成の35ミリF2.8が付いているのも、偉かった。
 
 
 コニカは・型と呼ばれていて、これはまだ日本とアメリカが講和条約を締結する以前であったから、そのカメラのボディーにはメイドイン・オキュパイド・ジャパンとカメラの革張りに刻印がなされていた。戦後の日本にアメリカ軍に占領された時期があったなどということは、すでに若い世代の記憶から完全に抹消されていることではあろう。そういう歴史的な事実をカメラが記憶しているのであるから、これはちゃんと記録にとどめられなければならない。

コニカ・型の場合にはちゃんとしたレンズシャッターのほかにちゃんと実用になるレンジファインダーがついていた。私はこのカメラが気に入っていて時々使用しているのであるが、そのボディに張られた革張りはすでに半分はげ落ちているとはいえそのヘキサー50ミリF3.5のレンズの描写というものは、現代のモダンなレンズと比較してそれほど劣っているというものではない。なかなかに実用になるのである。
 それに前の方でちょっと触れたけれど、ここにはデジタルカメラのように単純にメモリを突っ込んで、即撮影体制というお手軽主義はない、一種の「写真道」とでもいえるお作法があるのである。フィルムを入れるカメラを撮影するということは、21世紀の現代では、単に画像を得るということだけではなく、そういう一見すると無駄なようなことを、しかし実は写真という画像を得るために非常に重要な何者かに関与することなのである。

 昭和20年代の日本のレンジファインダーのレンズシャッター式カメラというものは、そのどれもが非常にシンプルでプリミティブな魅力にあふれている。つまりカメラのボディーにシャッター付きのレンズがつき、ボデイの上部にはとてもシンプルな逆ガリレオと式のファインダーがついているだけというようなものであった。現代のプラスチック製オートフォーカス一眼レフカメラに比べてなんという魅力的なシンプルさだろうか。
アイレス35・cは、1954年に登場したライカM3のデザインを、35ミリカメラのデザインにうまく吸収している。一種のコピーカメラであるが、よくライツから文句が出なかったものだ。しかし、ライカM3を持ちたいという、当時の日本カメラ人類のニーズをよく捕まえたものだ。レンズの写りなどもすばらしく、私の現役カメラである。
 
 
 昭和30年代になるとこの種類のレンズシャッター式カメラにも多くのバリエーションが登場するようになった。その代表選手が、35ミリ広角レンズをつけたワイドカメラである。その当時は写真界には社会主義リアリズムの風潮が流行していて、開発途上国であったわが国では、日本の醜い姿をそのままに現実として受け入れて、これを撮影記録しなければならないという風潮が主流であった。そのためには50ミリの標準レンズではもうすでに現実を記録するには十分ではないので、35ミリの広角レンズでこそ、混とんとした日本の現代の状況を記録できるのだという論理がまかり通っていたのであった。今にして思うとかなりこっけいなものの考え方ではあったが、それが流行であったのだ。
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