カメラはライカ
Mモデルのさらなる進化
―M4からM5、M6まで―
1984年以来、ライカの実用的な定番となったライカM6である。TTL測光で従来のライカのスタイルを踏襲した。最近では各種のライカ用のレンズがサードパーティから発売され、そのレンズの選択肢は広がった。
 ライカの歴史を分かりやすく、しかも実用的に三回連載でご紹介する、本企画も「大喜利」となった。

 今回はM3、M2で世界最高のレンジファインダーカメラとして、まさに不動の地位を確立した、ライカMモデルのその後の、さらなる進化、そして21世紀に向けての展開の予想をしてみよう。今までのライカの紹介記事では、ライカの歴史を振り返るというのが普通であるが、今回は今までのライカの歴史、ならびにライカM6に至るまでの歴史を総合して、来るべき21世紀のライカM7、あるいはM8、そしてM9からM10あたりまでを一緒に予想してしまおうと言うのである。

 さて、1950年代に、それまでのレンジファインダーとはまったく異なる高精密度と高性能と、頑丈さで登場したライカM3と、M2であったが、1960年台になると、第一線のプロ写真家から、M3もM2も時代遅れで、さらなる改良を望むという声が多くあがった。

 1950年代から60年代の初頭にかけて、ライカMモデルの価格というものは、戦前のように「ライカ一台=家・一軒」というほどの高価な買い物ではなかったにせよ、それは高価であるには十分な買い物であった。ゆえにライカM型を所有しているという話は、それが特定の人物が持っているという話題に絞られるなら、これはもう大事件であったのだ。そういうアマチュア写真家の持っているライカM型であれば、そういう写真の趣味人は、それを所持しているだけで、人生は大満足なのであるから、自分の「家宝」であるM3なり、あるいはM2なりに文句を言うようなことはなかった。

 問題なのはプロ写真家連中である。M3の静かなシャッター音、明るく正確なブライトフレームファインダーなどは、もう、これ以上は望むことの出来ないほどの、最高のプロカメラであった。ファインダーの正確さは、そのまま大胆な構図をとることが出来るということであり、その撮影は、そのままライカで撮影した写真はトリミングを一切せずに、そのままフルフレームでプリントする、というスナップショットの基本姿勢がそこに完成されたのである。

 戦前のドイツのライカによる作品集などを見ていると、そこに何とも形容しがたい、一種の堅苦しさを感じることがある。実はライカのファインダーがまだ未発達であった時代、すなわち、何処までが画面で、何処までがフレーム外なのかが分からなかった、ガリレオ式ファインダーの時代には、畢竟、ライカが写した画面をトリミングして「絵を創造」するというのが普通の作画方法であった。そういう「後で加減する」のは本来のライカ術ではなく、ライカは現場主義のカメラであり、シーンを撮影する時に、すべての構図を決定すること─このライカ写真術の奥義をライカは、当時の写真家に教えたのであった。

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