奥深い味わいがカメラファンを
引きつけてやまないライカ

〜田中長徳(ちょうとく)氏に聞くライカの魅力〜
M3 1954年
いまだ多くのライカファンを魅了する傑作機。1954年に発表。ファインダーはそれまでライカが採用していた二眼式から一眼式になり、ブライトフレームは50mm・90mm・135mmの3つが使用するレンズに応じて自動で切り替わる。シャッターダイヤルを1つにして操作性を向上。巻き上げレバーにより速写性もアップしている。初期型は2回巻き上げ方式で、1958年のシリアルナンバー919251からは1回巻き上げ方式に改良された。色違いのバリエーションを含め、1968年までに計214,744台製造された。
戦前から戦後にかけて、カメラがまだ非常に高価であった時代、カメラを買うということは男の道楽、一部の資産家たちの趣味であった。
そうした時代に「ライカ一台、家一軒」と呼ばれ、高額なカメラのシンボルとして君臨していたのが、今回取り上げるライカである。
最近のクラシックカメラブームとあいまって、このライカに関する著述もカメラ雑誌などで見かける機会が多くなっている。
そこでカメラのキタムラでは、「くさっても、ライカ」「ライカの謎、謎のライカ」など、ビギナーにもわかりやすい軽快な筆致で数多くのライカに関する著作をお書きになり、また仕事にもライカを使用されている写真家の田中長徳氏をお招きして、ライカの魅力についてお話を伺った。
たなか ちょうとく
1947年東京生まれ、日大写真科卒。日本デザインセンター勤務の後、1973年からフリーランス写真家に。ウィーンに8年間、ニューヨークに1年間滞在。東京、ウィーン、ニューヨークなどで個展多数開催。著書写真集多数。最近はクラシックカメラのエッセイの仕事も多い。日本写真家協会会員。

●田中先生はいつ頃からライカをお使いになったんですか。

 私がものごころついた頃は一眼レフカメラの勃興期で、ライカなんか知らなかったんです。ライカというのは面白いカメラで、それがライカであるとわからないと、全然価値が認められないものなんです。なんだかクラシックな格好をしてて、窓がついてて、使いにくそうだなと思ったのが一番最初の印象だったんですね。

 ライカを意識したのは、父親がとっていたアサヒカメラという雑誌に、木村伊兵衛先生が優れたスナップショットを撮ってらして、データを見てみたらライカM3と書いてありました。このライカM3というのはどういうカメラなんだろうと思いまして、その当時のカメラの本を見たら、以外とこれは使いやすそうなカメラじゃないかと、じゃあ買ってみようかと思ったんです。

 まだ中学生だったんですけど、その当時の輸入代理店はシュミットといって神田にあったんです。行ってびっくりしました。高価で。その当時のサラリーマンの給料の何十ヶ月分でした。自分はライカは一生買えないと思いましたね。

 ところが人間の欲というのは変なもので、ライカが高いというと余計に欲しくなる。その頃なんとなく写真が好きで撮りはじめてまして、日大の芸術学部写真学科に進んだんですけど、父親をだましてライカのM2を買わせたんです。これを買いましたのは1967年、20歳の時です。当時としては大変な値段でしたので、もちろん新品では買えません。その当時のライカは新品が25万円くらいしたんですが、13万円ほど払ったと思います。

 ライカを手に入れたのがうれしくてうれしくて、それでスナップショットを撮りはじめたんです。30年前の話ですから、その当時にはまだコンパクトカメラというものがこの世になかったんです。ライカというのは中判カメラが主流だった当時、それらの機種と比べるとコンパクト、それも非常に高級なコンパクト、そうした存在感がありました。

 スナップの神様といわれているアンリ・カルティエ・ブレッソンをはじめ、欧米の写真集やアメリカのカメラ雑誌で、私がいいと思った写真のデータを見てみると、どれもライカで撮られていたんです。一眼レフはクローズアップができたり望遠が使えたりするんですけど、ライカは標準レンズか、あるいはちょっと広角くらいで、日常の何でもない光景を空気のように撮ることができる、そんなカメラだったんです。

 それと、それまで使っていた一眼レフカメラと感触が全然違っていたのは手触りです。ライカの手触りは他のどのカメラとも違っていたんです。

田中先生がお持ちのライカ・スタンダード。「1938年製のボディに去年できたリコーのコンパクトカメラのレンズを付けているんです」ボディとレンズの製造年代には実に60年の差がある。